江戸初期から敦賀の発展と共に歩んできた「食」の総合カンパニー 港ダイニングしおそう本店 港ダイニングしおそう本店

ダイニングしおそう敦賀駅前店専用電話番号 0770-47-5442


”あのころ”ー
この言葉を聞いて思い出すのは何時ごろですか?
つらかった事、苦しかった事、うらしかった事・・・。
時代を振り返ると思い出す、それぞれの”あのころ”。
たくさんの思い出を胸に塩荘は100年起業になりました。

OBと語る

元社員と思い出を語る

元社員集合写真
【前列左】
村岡次子氏 1914(大正3)年6月18日]生 勤務期間:昭和27年~昭和49年 担当職務:お茶立ち売り
刀根美智子 塩荘グループ代表取締役会長
堂林三枝氏 1909(明治42)年8月20日生 勤務期間:昭和23年~昭和52年 担当職務:弁当類立ち売り
【後列左】
大岸敬蔵氏 1934(昭和9)年11月12日生 勤務期間:昭和37年~平成9年 担当職務:炊飯・板場
大谷新一氏 1917(大正6)年2月14日生 動務期間:昭和27年~昭和58年 担当職務:すし場
岩根絹子氏 1930(昭和5)年12月19日生 勤務期間:昭和47年~平成11年 担当職務:経理・事務
杉本幸男 塩荘グループ常務取締役 (司会)

見る夢は弁当売りのことばかり【司会】

OB写真堂林塩荘は今年、創業100周年を迎えました。これもひとえに皆さま方のお力添えのおかげと感謝申し上げます。本日は、元社員の皆さまに、昔のことなどいろいろと語り合っていただければと思います。
【刀根】
戦後の塩荘の歴史を担っていただいた皆さんには、思い出がたくさんおありだと思います。ひさびさにお会いした方もおられて、うれしゅうございます。時間の許すかぎりご歓談をいただきますようお願いをいたします。
【司会】
堂林さんは90歳を超えるご高齢でありながら、元気でお過ごしです。敦賀駅きっての立ち売りで、堂林さんにかなう人はいないと言われたと伝え聞いています。美声が評判で、お客さんがその声にひきつけられたとー。
【堂林】
今年の8月で94歳になります。戦後の昭和23年から52年まで、敦賀駅で弁当などの立ち売りをしていました。おおかた30年間、いいこともつらいこともあったけれど、無事に働かせてもらったのが何よりよかった。立ち売りが7人からいて、毎日たいがい売り切れました。夜勤もしょっちゅうやったし、駅前のラーメンを何杯食べたか、数え切れない。年をとってからは、夢を見ても、弁当を売る夢しか見んのです。
【村岡】
私は、塩荘に勤めていた親戚の人から、「お茶を売る人がおらんし、やってみんか」と誘われました。昭和27年、38歳のときで、それから昭和49年の60歳定年まで22年間、ずーつとお茶売り専門でした。
【堂林】
それまでは弁当とお茶を一緒に売っていたけれど、えろうてかなわんということで、お茶売りの人を入れてもらったんです。

100年間、1日も休まずに営業

OB写真村岡 【司会】
村岡さんが入社された昭和27年ころといえば、まだ戦後のバタパタしていた時期ですから。戦中戦後を含めて、塩荘は創業から100年間、一度も休んだことがありません。-つの商売で100年続き、しかも1日も休まなかったというのは、日本の企業でも数少ないのではないでしょうか。
【岩根】
会社の中では、それが当たり前になっていましたが、思えば、1日も休まずによく100年継続できたものだと思います。 刀根 長く続いたのも、汽車に引っ張られてきたからです。365日動いていますから、それに遅れまいとして-。皆さん、よくやってくださいました。
【司会】
継続は力なりという言葉そのものです。皆さん、朝早くから夜遅くまで働かれました.
【大岸】
私らの時代は、女の人でも夜中の2時、3時まで働きました。
【村岡】
販売員は、私が入ってから2年間ほど、盆も正月も日曜も祭日ない、まったく休みなしでした。労働組合ができたので、日曜だけ休みになったんです。あのころは、朝から晩までほんとうに疲れました。私は粟野に疎開をしていたので、朝7時の小浜線の始発で出て、夜は8時の終列車で帰りました。それがずーつと休みなしで、子供をかわいそうな目にあわせました。列車が入るたびに、やかんと茶器を下げ、ホームに出て売り歩く毎日でした。腰を痛めてからは、押して歩く台車をこしらえてもらいました。それからは、腰もだいぶ楽になりました。」

昔は敦賀駅で長時間停車

【司会】
当時、1日に何列車ほど入りましたか。
【堂林】
昭和20年代は、まだ列車の数そのものが少なかったから、途中、2時間ほど間があくこともありました。敦賀で急行列車が15分から20分も止まっていました。
【大岸】
昔は、鈍行が何本も走っていて、停車時間が長かったから、弁当がたくさん売れました。お客さんが楽に列車から降りて弁当が買えましたから。今は、弁当を買ってる余裕なんかありません。
【刀根】
当時は、列車の窓を開けて買うこともできました。
【司会】
敦賀の前後は、上りも下りも急勾配の山間を行くルートで、そのために敦賀駅では機関車を増結していましたから停車時間が長かったんです。だから、弁当もお茶もたくさん売れて-。記録によると、昭和26年ころで、幕の内弁当が80円くらい、すしが150円ぐらいでした。
【堂林】
お茶は、最初3円で、あとで5円になったかな。

一つでも多く売らなければと

【村岡】
お茶は、薄手の白っぽい土瓶に入れて売りました。のちに、プラスチックに替わりました。給料が歩合制でしたから、一つでも多く売らなければと一生懸命でした。あのころの苦労を思い出すと、泣けてきます。敦賀駅のホームは高いところにあって、風が吹き抜けるから、冬は寒くて凍えました。オーバーを着たまま売るわけにはいかんし、列車が来る間、待っているのが悲しかった・・・。
【大岸】
みんな、よく頑張ったと思います。
【刀根】
村岡さんが「お茶-、お茶-」と声を張り上げて売られていた姿が、今も目に浮かびます。当時は、列車が出発するときに、みんなホームに一列に並んで、帽子を取り、おじぎをして見送りました。
【堂林】
今もちょいちょい敦賀駅に立ち寄ってみるけれど、私の代で立ち売りもなくなって、車内販売と売店があるだけです。時代が変わりました。
【司会】
堂林さんを最後に、敦賀駅から立ち売りの人が姿を消しました。退職された昭和52年が、敦賀駅での立ち売りを終了した年です。
【村岡】
今は塩荘が車内販売もしているんですか。
【司会】
塩荘をはじめ北陸の駅弁の会社が出資して、車内販売専門の「北陸トラベルサービス」という会社を設立しています。塩荘からそこへ品物を納めています。

自衛隊の出動時は大忙し

【大谷】
私が入ったのは、村岡さんと同じ昭和27年で、駅前にエ場があったときです。当時、板場の料理人は、今、津内町にあるタヌキ寿司の親父さん一人きりで、すし場には人がいませんでした。私は、巻きずしなどを作ったあと、すぐにタイやキスをおろすといった毎日で、何もかもやりました。すしも機械で押すのではなくて、そのころは、重石をのせて押していました。あとで女性の岡本もとさんがそれをやりましたから、重いのにようやるなと感心しました。 自衛隊の人たちが災害や豪雪で出動したときは、大量購入するため、とても重石でやっていたのでは間に合わないので、専用の機械をこしらえてもらいました。
【村岡】
当時は、夜中の臨時列車が多くて、それに対応するのも大変でした。
【大谷】
そういうときは、夕方に、今夜は何十個くらい出そうだという連絡がありましたから、作って用意しました。立ち売りの人たちは、列車があれば一晩中、売っていました。

「きす鮨」から「鯛鮨」へ

きす鮨法被【大谷】
「鯛鮨」を始める前は、「きす鮨」でした。キスは冬になると捕れないし、夏も青くさいことがあって、お客さんから苦情が出たので、これではあかんと、主力を「鯛鮨」にかえていったんです。
【大岸】
毎日、魚屋から生ダイがトロ箱で20杯、サバが30杯くらい入りました。当時は全部、生魚を板場でさばいておろしました。明けても暮れても。今思えば、よくあれだけタイがあったものだと思います。
【大谷】
敦賀にはタイがなくて、舞鶴まで買いに行きました。それではどうにもならんということで、ヒカワ食品さんへ頼むようになったんです。鯛鮨は、毎日平均して250から300個くらい作りました。
【大岸】
幕の内弁当はもっと多くて、毎日、敦賀駅で500から600個ほど出ました。
【大谷】
ガリ切りもひと苦労でした。当時は出来合いのものがなくて、ポールに3杯分ほどのショウガを、すし場で薄切りにしました。包丁が根に引っかかって、手を切ってしまう。何人もケガをしていて、私もいまだに傷跡があります。仕切りに入れるバランも、花屋からバランの葉を買って、自分たちで波形に刻みました。 自衛隊の災害復旧出動のときは、鯛鮨を500個、600個とまとめて注文がきました。ふだんの3倍くらい作るから、すし場だけでは手が足りず、板場の若い衆を呼んで手伝わせました。
【大岸】
若い者の仕事は、重石の上げ下ろしばかりでした。
【司会】
OB写真大谷 必要に応じて応援に回り、みんなが協力体制でやっていたということですね。当時から、そういう職場の人間関係、雰囲気だったと-。駅前に塩荘の工場があったころ、製造には何人ほど人がいたのでしようか。
【大岸】
板場とすし場と御飯場で、計45人おりました。
【司会】
大谷さんが入社された昭和27年に1人から2人になり、昭和40年代にはそれだけの人数に増えていたわけですね。大岸さんは、昭和37年の入社ですね。

板場もメシ炊きからスタート

【大岸】
昭和36年に、それまでいた会社で労働争議があり、企業閉鎖をしてしまったので、それをきっかけに商売替えをして、名古屋へ1年半、板場の修業に行きました。帰ってきて塩荘に入れてもらったんです。最初は、御飯場に2カ月いました。まず、メシを炊けと。「わしは名古屋まで修業に行ってきたんだ。メシ炊きに入ったんではない」と、社長(第3代社長・刀根荘兵衛、通称“ひげさん”)に文句を言いにいきました。メシ炊きの難しさを知らなかったんです。 当時、燃料はおがくずでした。どんどんとつぎ足していくと、ぼろぼろと燃えていきました。おがくずで炊いた御飯は、ほんとおいしかった。
【司会】
当時の御飯を炊く技術は、大変なものだったでしょうね。今はガス、しかもコンピュータで制御して自動で炊き上がります。当時は、お釜で炊き上げていくというご苦労があった-。
【大谷】
炊く釜の数が増えてくると、おがくずでは間に合わなくなって、ひげぎさに「ガスにしたらどうか」と言ったら、えらく怒られました。「ガスでは、うまいメシは炊けん」と。
【大岸】
だけど、列車の数も増えていったし、必要に迫られて、おがくずから、まきに替わり、それでも追いつかなくて、結局、ガスに切り替えてもらいました。
【大谷】
最初は、板場の中で3升釜で炊いていました。すし御飯も大空のおばざんが炊いて、あわせてくれたんです。それでは間に合わんというので、販売員をしていた中村太八さんが御飯場に入りました。
【村岡】
大空のおばさんも、よく働いたね、朝早くから。
【大岸】
おばさんには、折箱も作ってもらいました。
【司会】
夫婦でされていたそうですね。折箱を作る機械が会社に残っています。
【岩根】
ガチャンコ、ガチャンコという音を思い出します。
【大谷】
駅弁の折箱も、昔と今とではだいぶ変わりました。最初のきす鮨の折箱は四角でした。それでは箸が入らないので、いろいろ考えて、今の鯛鮨のひし形になったんです。あれだと脇にすき間ができますから。

自慢は御飯に焼きサバ、卵焼き

OB大谷【大岸】
中村さんは御飯を炊くのが上手だった。毎日遅くまで炊いていました。
【大谷】
とにかく、飯を炊かせたら上手でした。酒が大好きで.飲むと寝てしまって、朝のすしが間に合わなかった。
【大岸】
釜は、最初は3升釜、あとで5升釜になって、それが5つありました。中村さんが順繰りに一晩中、連続で炊いていました。 塩荘の自慢は、御飯に焼きサバ、卵焼き。これは、天下一品です。 すし飯は、どこよりも塩荘が一番です。
【司会】
当時、すし飯だけでも御飯が食べられるという評判が立ちましたから。
【大谷】
私が働き始めた当時、すしに使っていた酢は、酢酸を薄めた合成酢でした。まだコメが不足していた時代でしたから仕方がなかったのですが、鼻につく酸っぱさや、どうにも旨みが出ないのを何とかしなければと思い、ひげさんに米酢を使ってはどうかと進言しました。「それなら、どこか心当たりがあるのか」と聞かれ、小浜の「とば屋酢店」で親戚の者が働いていることを思い出し、交渉に飛んでいきました。先方も大変喜んで、それ以来、取り引きが始まり、塩荘のすしの評判がよくなりました。
【司会】
そういう経緯があったのですか。とば屋さんとは今もお付き合いをさせていただいています。とば屋さんの話では、当時、合成酢に押されて窮地にあったそうです。今も米酢一筋、もうすぐ創業300年を迎えられる老舗として頑張っておられます。本当に良いものは、時代を超えて生き残るということではないでしようか。
【大谷】
よそでもまねして鯛鮨を売り出したけれど、敦賀・塩荘の鯛鮨はどこよりも評判が良かったですね。
【大岸】
しかも、生ダイを使うから、そりゃあ、おいしい。
【司会】
塩荘は元祖鯛鮨ということで、全国的に名が通っています。当時、皆さんが気概をもって築かれたものが、今も塩荘の誇りとして連綿と受け継がれています。

阪急百貨店で鯛鮨の実演販売

【大谷】
42年ごろから大阪の阪急百貨店へも、鯛鮨の実演販売に出るようになりました。
【大岸】
私も15年間、毎年、大阪へ行きました。
【大谷】
あのときは、阪急百貨店側から出てくれんかと声がかかったんです。
【大岸】
塩荘に、それだけの評価と信頼があったんでしようね。
【大谷】
当時、阪急百貨店に出たのは、富山の「ますのすし」と、敦賀の「鯛鮨」と、どこだったか、ちらし鮨の三つでした。最初、百貨店の厨房で御飯を炊くように言われましたが、味が変わるからと断りました。敦賀でどーんと御飯を炊いて持っていき、足りなくなると電話をかけて送ってもらいました。その後、金沢の百貨店にも実演販売に行きました。
【司会】
デパートの駅弁フェアというのが、そのころからスタートしたわけですね。デパートでの販売は、今も続いています。最近は、駅弁フェアもスーパーなど量販店へと広がってきています。駅弁は、その名の通り、列車で旅をするお客さまに駅で販売するところからスタートしましたが、その後、デパートへ、スーパーへと販路が広がっていきました。 昭和37年に北陸トンネルが開通し、翌年には衣掛山のループ線ができて、敦賀駅で機関車を増結しなくなり、列車の停車時間が短くなりました。そうしたこともあって、駅中心の販売から多角化していきました。
【大岸】
それに、昭和40年ころから自動車の時代になって、41年にはドライブイン塩荘がオープンしています。私は、昭和45年の大阪万博の年から2年間、ドライブイン塩荘に派遣されました。あのころ、ドライブインの板場に人がいなくて。 お客さんに食べてもらって、「おいしかった」という声が返ってきたときはうれしかったですね。ブリを刺し身にするのに、一人で1日に36本、さばいたことがあります。それが最高記録です。万博帰りのお客さんが立ち寄って、刺し身定食を食べて帰りました。漁連の市場から直接、ブリを持ってきましたから、イキがよくておいしいと評判でした。万博の期間中の売れることといったら、売店が空っぽになるくらい、すごかったですよ。弁当も何も残らない。「完売です。何もありません」と、売店の子が毎日言っていました。

鉄道弘済会とすみ分け

【司会】
駅の立ち売りでは、弁当のほかにも、いろんなものを売られたようですね。敦賀駅の構内営業の記録を見ますと、昭和11年ころは弁当、すし、干しがれい、かまぼこ、求肥昆布、洒、飲み物、アイスキャンディー、牛乳、パン、新聞、雑誌、たばこ、薬まで売っていたとあります。のちに鉄道弘済会ができで業務を分担しました。今のキヨスクの前身です。雑貨類は鉄道弘済会に移り、駅弁屋は純粋に弁当づくりに専念するということで区分けがされて、だいたい今もそれが続いています。ただ、最近ほ規制がゆるやかになって、うちも雑貨類を売るようになりました。
【大谷】
一時期、鉄道弘済会に押されて、苦しみました。
【堂林】
私は、駅弁のほかに、かまぼこや牛乳も売っていました。当時、列車が止まると、うわ一つとお客さんが寄ってきて、金を払わずに盗られるのも多かった。
【大岸】
シートで隠して売っていた人もいました。「売るより、盗られるはうが多いから」と言って。
【岩根】
毎晩7時ころになると、立ち売りさんの納金を数えさせていただいたんですけれど、私の記憶では11人ほどおられたと思います。
【大岸】
私が入った昭和37年ころは、会社の営業用の車がまだ1台もなかった。リヤカーの時代です。駅まで運ぶのは板場の若い衆の仕事で、「はよ行けよ-」と言われて.
【司会】
当時は配送部門を分けていなかったんですね。弁当の業界は、忙しい日と暇な日の差が大きいから、忙しいときは協力して、一人が何役もこなすというやり方が今も続いています。 【大谷】 ホームへ弁当を持ち込むのに、量が多いと駅のエレベータを使 わせてくれないので、みんなでリヤカーを引っ張ってホームに運び入れました。

三八豪雪のときも休まず

豪雪の中ホームでの立ち売り 【大岸】
私らは、弁当がなくなったから持っていけと言われて、駅まで何度走ったか分からない。三八豪雪のときには泣かされました。降ろした屋根雪を含めて3mほどたまっていて。
【岩根】
三八は、すごかったものねえ。駅が雪で埋まっていましたから。
【大岸】
板場の仕事がすむと運び屋で、弁当をごっぽし背負わざれて、下屋の高ざまで雪がたまっているところを歩いて運びました。熱いお茶の一斗缶も背負わされて、ふたがきちんと閉まらないから、背中に熱いのがこぼれて-。
【司会】
そういうときも、1日も休まなかったというのが、塩荘の伝統です。
【村岡】
休まなかったですね。
【刀根】
三代目荘兵衛が、いつもそのことを「ありがたいことや」と言っておりました。
【村岡】
荘兵衛さんは、鼻の下にひげがあったから、みんなは「ひげさん」と呼んでいました.

ひげさん”は厳しくてやさしい人

“ひげさん”は厳しくてやさしい人 【大岸】
厳しい人でした。毎朝、着物を着たひげさんが板場に来て、私の卵焼きの巻き方をじ一つと見ていて-怖くて震えました。
【村岡】
詰め場へもきて、じ一つと見ておられましたよ。
【大岸】
サバの切り方から全部教えてもらいました。私も修業してきたから知ってはいたけれど、「ここはこうせないかん」と。ほんとに厳しかった。
【大谷】
毎日、すしを一切れずつ持っていって、満足いく出来でないと呼び出されました。今日のすしの押し方は早いとか、遅いとか、いつもしかられるのは、私でした。人手がないときに、巻きずしをこしらえていたら、ひげさんが「よし、わしも巻いたる」と、一緒に巻いてもらったことがあります。
【刀根】
三代目荘兵衛が、駅弁の塩荘の土台をつくったと思っています。私は昭和26年に嫁にきて、食事のたびごとに、いろんな語を聞きました。家に帰って一杯飲むと、必ず皆さんの話をして感謝していました。商売に対して真剣だったからこそ、皆さんの前では厳しかったんだと思います。
【司会】
岩根さんは、昭和47年に入社されてから平成11年まで27年間、経理や事務の仕事をされてきました。金庫番という、大変重要な仕事でした。
【岩根】
いえいえ、事務の人はわりと多くおられましたので。私は「手配」といって、お客さまからご注文の電話を受ける仕事でした。相手は観光社の方が主でしたから、神経を使いました。相手の方は矢継ぎ早に用件を言われますし、聞き漏らしたら大変なことになりますから。
【司会】
手配の仕事はお客さまとの接点ですから、細やかな気遣いが要求されます。いろんなご注文を間違いなく受けて、それを調理場へ正確に伝えなければなりません。途中で変更があったりもしますし。

女性二人でセールス行脚

女性二人でセールス行脚【岩根】
板場さんとも、ときどき摩擦があって、注文を受けたものの、「そんなもんできんやないか」と言われることがありました。板ばざみになって苦労しました。 私が入社した翌年の昭和48年に刀根純一社長が亡くなられて、奥さまが社長として会社経営に加わられました。お供をして二人で観光社などへセールスに回りました。列車や観光バスの団体旅行で、お弁当のご注文をいただくためです。社長も私も慣れないことでしたし、土地柄も分からないし、暑いときも寒いときもありました。あのときは夢中でしたけれど、今思うと大変やったなと思います。あらかじめ住所だけ調べて、まったく知らないところへ飛び込みで行きました。金沢や福井、大阪や名古屋へも足を延ばしました。大変でしたが、懐かしいですね。
【刀根】
つらかったけれど、懐かしいね。

思い出の社員旅行

【司会】
楽しかった思い出は?
【岩根】
やはり、社内旅行です。みんなと行けるというのが楽しかったですね。毎年、知らないところへ連れていっていただきました。思い出がたくさんあります。
【村岡】
酒飲みの人で、飲んだらわけが分からなくなる人もいて。
【大岸】
みんなが宴会してる間、柱にくくっておいた。そうしないと、人のお膳を踏んで歩いて、宴会がワヤになったから。
【岩根】
みんな、たくさんお酒を飲まれました。人間味あふれる人ばかりでした。

頑張った人には海外旅行

頑張った人には海外旅行【大岸】
台湾やグアムにも行きました。グアムのときは、敦賀駅を出て疋田に着かないうちに、車内アナウンスで「塩荘の大岸さん、車掌室までおいでくだざい」というので、びっくりして駆けつけると、社長からの寸志が届いていました。グアムでは横井さんが住んでいたという洞穴も見せてもらいました。
【司会】
頑張っていただいた人には、ご褒美に海外旅行があるという、そういういい時代があったんですね。今はなかなか、そうしたことはできません。
【岩根】
私もヨーロッパヘ行かせていただきました。それこそ、大切な思い出です。
【刀根】
当時、南回りでした。
【司会】
海外旅行など、なかなかできなかった時代でしようから…‥
【岩根】
そうです。ありがたかったですね。

人の心を大切にしながら

【司会】
塩荘は、これから150年、200年に向けて歩み出そうとしています。会社は今、近代化をどんどん進めています。衛生的な設備関係も100周年に向けてほぼ完備しました。品質管理と品質保証のための国際基準ISO9001を、今年9月に取得しようということで、会社全体で取り組んでいます。これは、世界中で通用するような経営体系にしていこうというものです。伝統を守りながら、今の時代に合った商品づくりをして、お客さまにどのように報いることができるかを考えています。100周年を契機に塩荘も変わろうとしています。 皆さま方から、現役で働いている社員に対して、こういうことで頑張ってほしいとか、こういうことに気を付けなければいけないとか、何かアドバイスがありましたらお願いします。
【岩根】
今は、世の中があまりにもめまぐるしく変わってきていますから、正直申しまして、第一線を退いて家の中に入ってしまいますと、情報はテレビや新聞からになって、直接外の世界との接触が乏しく、世間に疎くなっています。今、伺ったように、塩荘が外に向かって進んでいくなかで、やはり根本にある人の心を大切にして、生かしていっていただけるといいなと思います。

“ノーと言わない塩荘”をめざして

“ノーと言わない塩荘”をめざして【司会】
経営手法は変わっても、根本は人の心です。会社の中が一つの心で、きちんと意思の疎通が図れるということが大切であり、私も岩根さんのおっしやる通りだと思います。 うちの会社が今、取り組んでいるのは、お客さまが塩荘にどのようなことを一番期待しているか、その情報をたくさん集めようということ。さらにそれに対して、ことごとくすべてのご要望におこたえをしようという意気込みで、”ノーと言わない塩荘”をめざしています。お客さまからご要望を受けたときに、「なんとか頑張ってみます」と前向きな姿勢で取り組むことを第一目標に挙げています。それを進めていくためには、社員みんなの心が、そういう方向に向いていかなければなりません。いいアドバイスをありがとうございます。
【大岸】
我々が板場にいたときも、お客さんから注文がきたら断らずにおこうと思いました。岩根さんの顔を見ると、気持ちが分かるんです。
【司会】
電話を受けた人は、お客さんから注文が入れば、100%おこたえしたいという気持ちになりますが、調理場には限界というものがありますから、そこが一番の悩みだったと思います。それをみんなで乗り越えて、お客さまに商品をお届けできたときは、うれしいですね。
【大岸】
なるべく断らんでおこうと努力しました。一度、断ったら、そのお客さんはもう注文をくれませんから。
【司会】
その気持ちは、今も引き継がれています。
【村陶】
塩荘には、ますます繁盛してもらいたいと思います。

厳しい時代を懸命に生きて

厳しい時代を懸命に生きて【刀根】
私たちの世代は、戦争がありましたから、誰もが厳しい時代を懸命に生き抜いてきました。大変だったこと、楽しかったこと、いろいろとありましたが、若しかったことも悲しかったことも、皆さん、今となっては懐かしい思い出になっているんじやないでしょうか。皆さんのおかげで、こうしてここまでこれました。 今また厳しい時代を迎えていますが、これから先も塩荘が200周年を目指して進めるように頑張っていきたいと思います。ありがとうございました。
【司会】
会長は、昭和48年にご主人が亡くなられて、それまで主婦をされていたのが、ある日突然、会社に出なければならなくなったと伺っています。商売のことは、三代目荘兵衛さんから話に聞いていただけだったと。でも、社長として会社を切り盛りして、どんどん業績を伸ばし、新しいことも取り入れて会社を大きくされてきました。その間には、ロでは言えないはどの苦労をされたことと思います。会長はお元気で、代表取締役として現役で務めていただいております。78歳ながら、気持ちはまだまだお若いし、体調も十分ということですから、今後も、皆さんに築いていただいた基礎を引き継ぎ、伝統を守りつつ、一方で時代にマッチした経営を目指して、会長、社長を先頭に社員一同、頑張ってまいります。今後とも末永くご支援を賜りますようお願いを申し上げます。

(2003年5月6日実施 文中・敬称略)

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